エジプトで実る国際交流と比較研究の果実
ハサン・カマル・ハルブ(Hassan Kamal Harb)氏 カイロ大学教授
エジプト生まれ。カイロ大学文学部日本語日本文学科を卒業後、大阪大学大学院にて修士号(2007年)および博士号(2010年)を取得。2017~2018年に日文研、2022年に横浜国立大学の客員教授を務める。2018~2023年カイロ大学日本研究センター所長、2019~2024年MUST(ミスル科学技術)大学およびカイロ大学の日本語学科長を歴任。MUST大学およびガラーラ大学では国際交流を担当し、学長補佐として大学間連携を推進。現在、カイロ大学文学部日本語日本文学科教授、ならびに広島大学・ガラーラ大学ピースメモリアルセンター所長。
ハサン・カマル・ハルブ氏は、2025年4月から2026年3月まで、「近代エジプトにおける日本の近代化―伊藤博文を中心に」の研究のため、日文研に滞在されています。ご専門は思想史で、近代日本・イスラーム・西洋思想を横断する比較思想史、日本とイスラーム・アラブ世界(特にエジプト)の近代化、政教関係論(宗教・政治・教育の関係)、ならびに新知識・異文化理解の受容と媒介、翻訳研究を主な研究分野とされています。

日本に関心を持たれたきっかけを教えてください。
実は高校生の頃まで、日本にはほとんど関心がありませんでした。むしろアメリカ文化が好きで、マイケル・ジャクソンに夢中でした。転機になったのは、父に連れられて叔父の会社を訪ねたときです。その会社がNECで、社内に日本の国旗が掲げられているのを見て、「これはアメリカの会社ではないのか」と驚きました。叔父から、日本の電機製品は丈夫で信頼できるという話を聞き、初めて「日本」という国を意識するようになりました。
日本語は大学で勉強されたのですか。
はい、カイロ大学で日本語・日本文化を専攻しました。その間、1年間名古屋大学に留学しましたが、コース選択を間違えて、最も難しい大学院進学のための予備コースに入ってしまったんです。とても大変なコースで、論文まで書かなければならなかったので、エジプトと日本のことわざについて書きました。その経験が日本語力や研究への姿勢を鍛えてくれたと思います。
大学院では何を研究されましたか。
学部卒業後は、個々の言語表現だけでなく、「社会そのもの」を理論的に理解したいという思いが強くなり、大阪大学大学院に進学することにしました。そこで、日本社会を知る手がかりとして文学に注目し、松本清張を研究対象にしようと考えました。ですが、指導教員に相談に行ったところ、「松本清張について書いた小論文は素晴らしいが、いったんゼロから始めよう」と言われました。理由は、「小論文から、あなたが今の日本社会の土台を理解して自分の国に貢献したいように読めた。それなら、日本の近代化を研究したほうがいい」というものでした。正直、そのときは戸惑いましたが、結果的には先生の指導に従うことにしました。
そこから福沢諭吉の研究へと進まれたのですね。
はい。最初は、指導教員に5人の近代思想家の著作を勧められましたが、その中で最も強く惹かれたのが福沢諭吉でした。その後、19世紀後半から20世紀前半に活動した5人のイスラーム近代主義者の著作を読むように言われました。そこで選んだのがエジプトのみならずイスラーム世界全体において最も影響力をもつムハンマド・アブドウ(1849-1905)です。この二人を中心に、教育や知識の普及、宗教との向き合い方、政教関係論、国民形成のあり方等を検討し、日本とイスラーム世界の近代化を比較する視点を深めていきました。

エジプトの日本研究の現状はどうですか。
エジプトでは「日本研究=日本語教育」と理解されている場合が多いです。背景には、日本語を学ぶことが観光、通訳、翻訳、日系企業などの仕事に直結しやすいという現実があります。
日本語教育を根本的に実施している大学としては、カイロ大学、アインシャムス大学、バンハ大学、MUST大学、アスワン大学などがあります。また、日本語学科や関連プログラムもこの数年で増えましたが、多くの場合は人材や資料が整う前に学科が先に作られるという問題があります。
研究や教育ではどのような課題がありますか。
一番大きな課題は資料の不足で、日本研究の原点にあたるような資料の入手が難しいことです。全集のような一次資料も少ないですし、二次資料へのアクセスも困難です。その解決に向けて、日文研と連携して資料をご提供いただくほか、図書寄贈制度READ JAPAN PROJECT(公益財団法人東京財団)や国際交流基金にも申請して、日本の大学への協力依頼などを行っていますが、まだ改善が必要な状況です。
次に、研究の偏りの問題があります。時代的には現代の研究が多く、近代以前(近世・中世・古代)はほとんどありません。分野面では、日本語教育の研究が一番多く、日本の哲学や歴史の研究は極端に少ないです。日本文学では、芥川龍之介や三島由紀夫など、指導教員の専門分野と重なり、比較的エジプトでも資料を入手しやすい近代文学者が、学生の研究対象に選ばれることが多いです。一方で、特定の作品の分析に焦点が当たりやすく、作家の人物像や思想的背景、作品が成立した時代的・歴史的・社会的文脈をより広く捉える視点については、今後さらに意識していく余地があると思います。また、複数の言語や文化圏を横断する比較研究は、学生にとって心理的・学習的負担が大きいと受け止められやすいので、研究テーマとして選択されにくい傾向にあります。今後は、研究方法論の段階的な指導や、テーマ設定の工夫、資料アクセス面での支援を通じて、比較研究に取り組みやすい環境を整えることが重要だと思います。
先生は、エジプトと日本の学術交流にもご尽力されていますね。
私は、2017年に初めて外国人研究員として日文研に滞在しましたが、日文研は国際交流の交差点だと思います。日文研で生まれる交流が一本の木のようなものだとしたら、その実の一つがエジプトでなっていると言えます。日文研で出会った世界各国の研究者とネットワークを築くことができて、帰国後は大学間の協定を結ぶことにも発展しました。2021年にはエジプトで広島大学・ガラーラ大学ピースメモリアルセンターの設立に関わりましたが、これは日文研を頭に思い浮かべながら作りました。そこで、平和を共通の軸として、広島・長崎を中心とする記憶と経験の共有を起点に、中東地域においては教育開発や移民問題、共生社会・異文化理解といった現代的課題を扱い、相互に連動した形で、ミニシンポジウム、特別講義シリーズ、ワークショップ等を開催しました。
博士課程の学生にメッセージをお願いします。
将来の仕事のことだけを考えるのではなく、まずは自分が本当に関心を持てることを勉強してほしいと思います。特にエジプトの学生には、少なくとも一度は日本で学ぶ経験をしてほしいです。机上の知識だけでなく、実際に日本文化に触れ、時には衝突する中でこそ多くの学びが得られます。
